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| ◆栃木県の観光ガイド-栃木県ゆかりの人- |
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栃木県を観光するとき、歴史を切り離すことはできません。 | ![]() ▲勝道上人(輪王寺/日光市) |
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| ■那須与一 生没年不詳。平安時代末期の武将で、源義経の家臣でした。 仁安元年(1166年)ごろ、下野国の豪族・那須資隆の11番目の男子として、 現在の小川町で生まれた。与一は通称で余一とも書き、本名は宗隆。 弓の名手で、空飛ぶ鳥を3羽中2羽を射落とす腕前だったといいます。 文治元年(1185年)源平屋島の合戦のとき、平家が立てた舟のへ先の扇を見事に射落とした話が有名で、この話は「平家物語」の一段にあり、琵琶法師によって全国に語り継がれたものです。 しかし、実在の人物であるという確たる資料は今のところ発見されておりません。 | ![]() ▲温泉神社(那須町) |
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| ■二宮尊徳 江戸末期の農政家、通称・二宮金次郎の名で知られています。 天明7年(1787年)相模国栢山村(現在の小田原市)に生まれ、幼少のころに洪水で家財を失って 一家離散してしまったが、伯父の家で仕事の合間に勉学に励み、のちに一家を再興しました。 34歳のとき小田原藩の家老に仕え、同家の財政立て直しに成功。 その後も請われて救済した村は数100にも及んだといわれています。 文政6年(1823年)、藩命により下野国桜町領(現在の二宮町、真岡市)に移住、 没するまでの35年間、栃木県での農村復興運動に取り組みました。 天保13年(1842年)、幕府から日光神領90村の復興開発の依頼を受けたが、 事業なかばの安政3年(1856年)、移住地の今市で病没しました。 神・儒・仏の思想を基盤とした一円融合、報徳の精神で生涯を貫き、 その農村改革は“報徳仕方”と呼ばれています。 |
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| ■田中正造 足尾銅山鉱毒事件で被害住民の先頭に立って戦い続け、 公害問題提起の先駆者である田中正造は、自らを“下野百姓なり”と言明。 安蘇郡小中村(現在の佐野市)の名主の家に生まれ、自由民権運動家として 民衆に尽くすことを決意して政治家となりました。 足尾銅山から流れ出す鉱毒が渡良瀬川を汚染し、沿岸住民に被害を与えていることを知った田中正造は、被害農民の救済に立ち上がって帝国議会に質問を提出。農民とともに鉱毒防止を訴え続け、明治34年(1901年)には、議員を辞職して天皇に直訴したことは有名です。 64歳で谷中村(現在の藤岡町)に住み、谷中村の遊水池化反対。 しかし明治40年(1907年)、村は強制執行によって廃村。 渡良瀬川に清流を取り戻すために一生をかけた正造も、 大正2年(1913年)、72歳で病没してしまいました。 | ![]() ▲旧谷中村 (渡良瀬遊水地内/藤岡町) |
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■浜田庄司 益子焼を世界に紹介した陶芸家。 明治27年(1894年)、東京に生まれ、大正9年(1920年)、バーナード・リーチとともに英国へ渡って伝統的な陶芸を研究、ロンドンで個展を開いて好評を博しました。大正13年(1924年)に帰国し、学生時代に益子の焼き物を目にしたのが縁で 益子に窯を築いて定住しました。 柳宗悦らと民芸運動を提唱し、実践者として益子の伝統的な技法を生かして、 盛んに民芸陶器を制作、単なる日用品でしかなかった益子焼に新しい息を吹き込み、益子焼を民芸品に育て上げました。 昭和30年、民芸陶器の制作技術によって重要無形文化財(人間国宝)に指定。 昭和53年に没しています。 | ![]() ▲益子参考館(益子町) |
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| そのほか、林子平、高山彦郎とともに、寛政の三奇人といわれた蒲生君平、 「路傍の石」を書いた山本有三、版画家の川上澄生など、 栃木県ゆかりの人物は多く、歴史にその名を刻まれています。 |
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