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戊辰戦争と宇都宮の歴史

宇都宮市内中心部には、由緒ある神社や復元された城など、見応えたっぷりの歴史的なスポットが点在しています。宇都宮の歴史は平安時代に宇都宮二荒山神社の門前町として発展し、500年ほどは宇都宮氏が統治しますが、豊臣秀吉によって宇都宮氏は滅亡させられてしまいます。その後の江戸時代には城下町として栄え、現在の宇都宮の町の原型が築かれました。

戊辰戦争と宇都宮城

宇都宮城が焼けたのは戊辰戦争の時です。1868年(慶応4年)1月、鳥羽・伏見の闘いを発端として、新政府と一部の旧幕府軍や大名との間に戊辰戦争が起こりました。宇都宮は官軍(新政府側)についたため、福島の会津若松城などとともに、宇都宮城は大規模な戦闘が展開された数少ない城の一つとなりました。

同年の4月18日、大鳥圭介率いる旧幕府軍と宇都宮藩兵が戦っている最中に[※1]、土方歳三らの率いる別働隊が宇都宮城に攻め入り、宇都宮城は陥落します。

[※1]大鳥圭介が宇都宮城に入城したのは4月20日。宇都宮城の攻略には加わっていません。


宇都宮城址公園(左)と八幡山の宇都宮タワー(右)

その5日後の4月23日、今度は官軍の宇都宮城救援隊(奪還部隊)が続々到着して戦闘を再開。旧幕府軍は抵抗しましたが、宇都宮城を守り切れずに後退し、二荒山(ふたあらやま)や八幡山(はちまんやま)に陣を構えて防戦。官軍と旧幕府軍との砲撃戦が始まった結果、旧幕府軍は北に敗走して宇都宮城の戦いは終わりました。[※2]

[※2]土方歳三はこの宇都宮での再戦で足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることになった。

この戦いで宇都宮は城だけでなく、当時の城下町も広く焼けてしまいました。宇都宮に古い建物が少ないのは、この戊辰戦争と、のちの第二次世界大戦の宇都宮空襲が原因です。

戊辰役戦士墓(六道辻)と宇都宮市民の心

宇都宮で行われた戊辰戦争の激戦地に旧幕府軍の戦死者を供養するための墓碑が建てられています。

土方歳三らの旧幕府軍に宇都宮城を奪われた後の1868年(慶応4年/明治元年)4月23日、宇都宮藩・戸田三男を隊長とする官軍(新政府軍)と、山本帯刀を隊長とする会津・長岡の旧幕府軍の激戦が六道(ろくどう)付近で行われ、ここで多数の戦死者が出ました。官軍の戦死者は新政府により手厚く葬られましたが、旧幕府軍は「賊軍」とされ、公に弔うことができませんでした。

宇都宮の激戦から6年後(明治7年)、戸田三男や近隣住民らによって旧幕府軍の戦死者である会津・長岡藩の武士を供養するため、写真の「戊辰之役戦士墓」と書かれた墓碑が建てられました。


墓碑がある交差点(左)と戊辰役戦士墓(右)

なお、旧幕府軍に勝利した戸田三男らは、戦後すぐにでも会津・長岡藩の旧幕府軍戦死者の慰霊供養のための墓碑建立を望んでいましたが、「6年」という月日がかかってしまったのは、戊辰戦争の傷跡がまだ癒えぬ時期に、賊軍の汚名を着せられた旧幕府軍戦死者を供養するなど、ましてや新政府軍についた者が建立するなど、世間一般としてあり得なかったから。こうした風潮が改まるには時間がとてもかかったのです。

地元民たちの理解を得て、墓碑建立には戸田三男ら旧宇都宮藩士たちだけでなく、地元民の7名も加わりました。墓碑に今なお誰が手向けるのか献花と線香が絶えません。宇都宮市民のあたたかな心を見ることができるでしょう。

「宇都宮」の由来と宇都宮氏

ところで、歴史に「宇都宮」という名が初めて登場したのは平安時代の終わり頃。1063年(康平6年)に藤原宗円が源頼義に従い、奥州の豪族・安倍頼時を討つため下野国(現:栃木県)に下りました。そして祈祷をこらし平定を成し遂げた功績によって、宇都宮二荒山神社(ふたあらやま/宇都宮大明神)の社務職に任じられたのが始まりです。

「宇都宮」の語源は、後述する宇都宮二荒山神社の別名「下野一の宮」が次第に「宇都宮」に転訛したという説があり、三代城主・藤原朝綱が宇都宮氏を名乗ったことから地名として定着したものと考えられています。


宇都宮二荒山神社の門(左)と藤原朝綱像(右/下野國誌より)

宇都宮氏は豊臣秀吉によって所領を没収されるまでの二十二代、534年の長きにわたり宇都宮城を居城に勢力を振るいました。この時代を代表する文化財としては、八代城主・宇都宮貞綱が亡母十三回忌供養のため東勝寺(廃寺)に建立した全国的にも珍しい「鉄塔婆」(現:清巌寺)、同じく東勝寺の梵鐘として時を知らせた「およりの鐘」(現:宝巌寺)、興禅寺に建立された「宇都宮貞綱、公綱の墓」という五輪塔、十七代城主・宇都宮成綱が開基した「赤門通り」の名の由来の慈光寺の「木造阿弥陀如来坐像」、十二代城主・宇都宮満綱が城内に長楽寺(廃寺)を建立した際に本尊とした鋳銅阿弥陀如来像(銅造阿弥陀如来坐像)「汗かき阿弥陀」があります。(現:一向寺)


慈光寺の赤門(裏側/左)と一向寺の「汗かき阿弥陀」(右)

なお、「汗かき阿弥陀」の名は、今までに国の凶事の前兆に発汗していることが由来です。太平洋戦争、関東大震災、日清・日露戦争、戊辰戦争、古くは五十里湖の大洪水、宇都宮家の滅亡の時などにも発汗し、阿弥陀像の衣をつけていない皮膚の部分がしっとりと汗をかいたようになったといわれています。(拝観は要連絡)

宇都宮二荒山神社は、昔も今も「宮」の中心

戊辰戦争と太平洋戦争の戦火で町が焼けた宇都宮。ただ、建物はなくなっても道は残りました。宇都宮中心部の道は、昔の道筋や堀の名残です。そういう意味では道が歴史をたどる道しるべになっています。

宇都宮城址公園からまっすぐに伸びる「御橋通り」は、その昔、宇都宮城主が宇都宮二荒山神社に参拝する際に渡った道筋です。

宇都宮二荒山神社の創建は約1600年前と伝えられています。この地を平定した崇神天皇の皇子・豊城入彦命を御祭神に祀ったのが最初といわれています。古くから宇都宮の守り神(宇都宮大明神)として信仰され、宇都宮市民の心のよりどころです。


宇都宮二荒山神社の大鳥居(左)と社殿(右)

なお、現在の社殿は戊辰戦争で焼かれたあとの明治10年に仮社殿として建てられたものです。宇都宮二荒山神社のことを、市民は親しみを込めて「ふたあらさん」[※]と呼んでいます。

[※]宇都宮二荒山神社の正式名称は「ふたあらやま」、日光二荒山神社は「ふたらさん」。この2つは主祭神が異なる全く別の神社。

宇都宮二荒山神社は多くの武将、名将たちからも崇拝された神社で、藤原秀郷や源義家、鎌倉幕府を開いた源頼朝も参拝しています。本殿には徳川家康が奉納した擬宝珠(ぎぼし)があり、天皇家につながる神社のため「菊の御紋」が使われています。

宇都宮を代表する偉人・蒲生君平

この時代、宇都宮を代表する偉人として「蒲生君平(がもうくんぺい)」を挙げることができます。宇都宮で生まれた江戸時代の儒学者です。

蒲生君平は、高山彦九郎、林子平(はやししへい)と共に「寛政の三奇人」と呼ばれ、近畿の歴代天皇陵を調査した「山陵志」を残した「前方後円墳」の名付け親です。その研究調査の業績を讃える「蒲生君平勅牌碑」が1869年(明治2年)明治天皇の命により宇都宮の入口である南新町(現:花房一丁目)に建立され、のちの1912年(大正元年)に蒲生君平を祭神とする神社の創建が計画、1930年(昭和5年)に「蒲生神社」が八幡山公園そば(塙田)に建立されました。


蒲生神社の「明石志賀之助碑」(左)と大豆三粒の金仏(右)

蒲生神社は学問の神様として合格祈願に訪れる受験生やその両親が多く、昨今は「就職試験合格」と書かれた絵馬も見かけます。また蒲生神社には宇都宮出身の初代横綱「明石志賀之助」の像があり、境内には石碑や手形が飾られています。

このほか宇都宮には、普願寺(南大通り一丁目)の「大豆三粒の金仏(貯蓄の大仏)」、大谷石造りの「カトリック松が峰教会」など歴史を秘めたたくさんの文化財と史跡が点在しています。これらの歴史をひとつひとつ紐解いてゆくことも、宇都宮観光・旅行の楽しみの1つでしょう。

<情報掲載 2019.6.24>


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